光秀の謎

定説で光秀は美濃の明智氏の出身で明智光綱の息子とされるが、前半生が不透明なこともあって以下の異説が存在する。
土岐元頼の息子
進士信周の次男
御門重兵衛をいう者が明智氏を名乗った
若狭国小浜の刀鍛冶・藤原冬広の次男
「明智光秀」の関連・・本能寺の変(ほんのうじのへん)

1582年(天正10)6月2日、明智光秀(あけちみつひで)が京都本能寺に主君織田信長を襲って自殺させた事件。
この年3月、甲斐(かい)(山梨県)の武田氏を滅ぼした信長は、帰国後、安土(あづち)など本拠地の経営を固めたり、徳川家康を招いたりした。
そのあと、備中(びっちゅう)(岡山県)で毛利(もうり)氏と対陣している羽柴(はしば)(豊臣(とよとみ))秀吉を応援するため、 6月1日、京都四条の本能寺に入った。
このとき中国出陣を命ぜられた明智光秀は家臣と謀り、丹波(たんば)(京都府)亀山城を出ると兵を京都に向け、本能寺を囲んで信長を自殺させた。
ついで光秀の兵は二条御所の織田信忠(のぶただ)を襲い、信忠も自殺した。
このころ、信長の勧めにより堺(さかい)を見物していた徳川家康は本能寺の変を知るや、ただちに伊賀越(いがごえ)の間道をとって伊勢(いせ)路に抜け、 三河(みかわ)(愛知県)へ逃げ帰った。
しかし光秀も、中国陣より兵を返した秀吉と山崎(京都府大山崎町)に戦って敗走、小栗栖(おぐるす)(宇治市)で農民に刺殺された。


光秀の人物像

明智光秀といえば「主殺し」、「三日天下」など、ありがたくない代名詞がつくのが一般的である。 しかしながら、歴史を大きく転回させたキーマンであることは疑うべくもない。
同時に光秀ほど謎に満ち、歴史的興味をかりたててくれる人物も、そう多くはない。
また、戦国期の武将の中で光秀が特異な存在で一人浮いて見えてしまうのはどうしてだろうか。
私の感覚ではあるが、信長・秀吉・家康に代表される戦国武将は歴史上の勝者敗者を問わず、現実世界からかけ離れた人物であるのに対し、 光秀については、その栄光も苦悩も挫折も現代に通じるドキュメンタリとしてとらえることができるのである。